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2009年8月 3日

島原の乱以後の天草

島原の乱が天草と連動した原因の1つは、広高が天草の石高を過大に算定したことにあった。広高は天草の石高を田畑の収穫を37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定した。しかし実際にはその半分が妥当な数字であった。広高が石高を実際の生産量の2倍に算定したため徴税は過酷となり、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを一揆に追い詰め、武士身分から彼らと同じ百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立、さらには反乱に立ち上がることによる内戦に至ったのである。

島原の乱後、山崎家治が天草の領主となったが3年で讃岐国丸亀に国替えとなった。天草は幕府直轄領(いわゆる天領)となり、鈴木重成が初代の代官となった。鈴木は禅の教理思想こそがキリシタン信仰に拮抗できると考え、曹洞宗の僧となっていた兄の鈴木正三を天草に招き住民の教化につとめた。一方、住民がほとんど戦没して無人地帯と化した地域(例えば大矢野島など)には周辺の諸藩から移住者を募って復興に尽力した。天草の貧しさの原因が過大な石高の算定にあることを見抜いた重成は検地をやり直し、幕府に対して何度も天草の石高の算定を半分の21,000石にするよう訴えた。しかし、幕府は前例がないとしてこれを拒絶した。そのため、重成は承応2年(1653年)に江戸の自邸で石高半減の願書を残して切腹し幕府に抗議した。幕府はこの事態に驚愕して重成の死因を病死と発表し、養子の重辰(正三の子)を2代目の代官に任命した。この事実はやがて天草の領民にも伝わり、領民は皆号泣したと伝えられている。重辰もまた天草の石高半減を幕府に再三訴えたため、万治2年(1659年)に幕府はようやく天草の石高半減を認めた。

重辰が畿内に転出した後、戸田忠昌が封ぜられて領主となったが、忠昌は広高が構築した富岡城を破壊して陣屋造りとした。これは、領民の負担を軽減するためである。さらに忠昌は離島が多く農業生産力が低い天草は私領に適さないとして、幕府直轄領とすることを提案した。忠昌の提案は認められ、天草は寛文11年(1671年)に再び幕府直轄領となった。

天草における反乱の原因は、広高による天草の実情を無視した統治にあった。その是正に島原の乱の鎮圧から30年以上の年月を必要としたのである。

天草の場合、島原半島よりも隠れキリシタンによるキリシタン信者の潜伏残存率は高かったといわれる。これは離島が多いため、島原半島南目地域のように根こそぎ住民が反乱に動員されることが容易でなく無人地帯が広がらなかったことや江戸時代も半ばになると幕府直轄領である天草から産する海鼠・鮑・鱶鰭などの海産物の乾物(俵物)がやはり幕府直轄領である長崎を通じて清朝に輸出されて幕府の重要な財源となったため、隠れキリシタン信仰の過度の追及を自粛したことなどが要因として挙げられる。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

島原の乱以後について調べてみました。

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